ブース記念病院100周年記念サイト
1.救世軍医療事業の始まり 最初の救世軍病院の開設
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- 明治40年
- 創立者ウィリアム・ブース来日
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日本の貧困層のための医療事業の必要を感じ、五万ポンド(現在の価値で約2億円)を、英国の本部から拠出することを約束。
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- 1912
- 救世軍病院全景
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設立の始末
明治40年創立者の来日
明治45年救世軍病院開設 東京市下谷区仲御徒町
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資金
ウイリアム・ブースからの基金 / 50,000円(2億円)
後援者(大隈重信、渋沢栄一、尾崎行雄、千家尊福等)による観劇会の収益 / 8,000円(3千万円)
小林富次郎(ライオン社長) / 1,000円(380万円)
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働き
もっぱら貧民の救療に便することとなった。
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- 1912
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- 開院式
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大隈 重信、千家 尊福、渋沢 栄一、尾崎 行雄などの祝電祝辞、西園寺 公望、原 敬の祝辞など
「・・・貧民病院の新たに設立せられたるを見、ブース翁の言うところここに始めて身にせられたるを喜ぶ。・・・将来に効果を収め、都下済民事業の一儀標たるに至らんことを望む。(西園寺公望)」
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- 巡回診療
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- 診療前の礼拝
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- 内科の診察
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- 外科の診察
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- 救世軍病院規則
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【第1条】
救世軍病院は親しく貧困なる患者に接触してこれを救療することをもって目的とする。その方法は、(1)外来の診療 (2)貧民屈の巡回救護 (3)入院 (4)他病院への紹介【第5条】
入院患者は、本院が取り調べの上相当と認めたるものに限りこれを収容する。【第7条】
本院は患者の自重心を傷つけざらしめんため、なるべく多少の薬価を支払わしめ、ただ、極貧者に限り全然施療をなす。但し、薬価は一日一剤金5銭(今の価値で約190円)を超過することなし。
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そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
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2.救世軍病院の事業内容
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- 救世軍病院第一年報告書
- 特色
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200坪の地所を表は病院、中は院長住宅、裏は看護婦養成所。ベッド数は10床、しかも最初一年は経費の都合でめったに使わない。
- 1. 夜間の診察。貧困なる患者の、昼間労働に行くものの便利を計る。
- 2. 医者、看護師、産婆等、市中の貧民屈を戸毎に訪問。
- 3. 貧困な急病患者には、早速往診して救療をなす。
- 4. 薬価は、全然無料を標榜せず、一銭から五銭を限り、支払う。
- 5. 院長以下、全職員、いずれもキリスト信者を用い、常の同情を愛との実行を心がける。
- 6. 必要に応じ、患者に精神上の慰安と治療とを与えるよう努める。
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当時、顧問を委託した方々
- 遠山 椿吉(1857-1928)
東京市衛生験所初代所長。結核予防などの衛生事業。 - 河本 重次郎(1859-1938)
日本近代眼科の父。 - 木下 正中(1869-1952)
産婦人科界の先駆。賛育会の初代理事長。下層者のための産院。 - 金杉 英五郎(1865-1942)
耳鼻咽喉科を創設。 - 弘田 長(1859-1928)
東大、小児学教室の初代教授。 - 片山 国嘉(1855-1931)
東大で最初の法医学講座を開講。晩年は禁酒運動。 - 田代 義徳(1864-1938)
整形外科の命名者で、基礎を築く。 - 三宅 秀(1848-1938)
東大で最初の医学博士号を取得 - 北里 柴三郎(1853-1931)
日本細菌学の父。
- 遠山 椿吉(1857-1928)
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- 当時、顧問を委託した方々
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木下 正中氏
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- 当時、顧問を委託した方々
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北里 柴三郎氏
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- 一年間の「成績」
- 外来患者数
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27,306人 (月2,275人)
- 外来新患者病類別
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2,623人のうち
呼吸器系 656人
消化器系 380人
- 巡回救護
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巡回時間 1,582時間
巡回戸数 21,406戸(月1,783戸 日59戸)
- 結核相談取り扱い数
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新患 370人
旧患(再診) 2,157人
延べ人数 5,361人
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- 肺病相談所
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救世軍病院はまた結核患者の保護指導に対する責任を感じ、次の方法によりて特別の努力を試みて居る。
- 結核患者保護指導所
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- 1. 一般に結核患者を診察して適当なる栄養上の注意を与え、または相談相手となり、事情に応じては医員、士官、看護婦を派遣して懇切に保護指導をなす。
- 1. 結核患者は何人といえども申し込むことを得。ただし、貧困者のほかは治療投薬をなさず。
- 1. 診察料不要。ただし任意の寄付を申し受ける。
- 結核に関する講演
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1.学校、団体等に出張講演の求めに応ず。但し講演料を要せず。
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- 職員数
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医師:5名, 薬剤師:1名, 看護婦:4名
産婆:1名, 篤志看護婦:126名
- 篤志家看護婦制度
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月10銭ずつ寄付して貧民の救療を助け、都合のついたときには自分で出かけて、貧民の患者を慰問しようと言う、これが篤志看護婦会の趣意である。
・・・・ボランティアと後援会を一つにしたような制度。
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- 後援者
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大隈 重信、千家 尊福、渋沢 栄一、尾崎 行雄、小林富次郎
二人の兄弟 金30銭に手紙を添えて寄付。
「母親からもらう小遣いの中から、貯めたもの。自分たちは、きれいな着物を着て、勉強もさせてもらっているが、そうではない人たちもいるでしょう。少しですが、そのような人のために用いてください。」 - 次の章へ