ブース記念病院100周年記念サイト

4救世軍杉並診療所 と 山室機恵子

1916年(大正5年)

救世軍杉並診療所開設 病床数:50床

1928年(昭和3年)

保養者コロニーの設備機構の整備

「救世軍療養所一斑」(1934年(昭和9年)発行)によれば・・・当時

8病棟 205床

敷地:10,044坪

建坪:1,646坪



【コロニー療法】
結核の治療は長期にわたるので、財政的逼迫をする。そこで少し良くなると普通の生活に戻り、休養する暇も無く、健康な人と同じように働く。
その結果、再発し、伝染の元となるので、本人にとっても社会にとっても不幸を来たらすことになる。
保養者コロニーは、これらの不幸を救済し、回復者に、その勝ち取った健康を確保させ、逐次、患者の減少を図る施設であり、患者たちに長く保養生活を営ませることができる。


ここでは、療養所を出た軽快者をコロニーに収容し、経済的援助を与えつつ予後の保養と生産的生活を並行させ、少しづつ健康者な実の生活をしての差し支えないまでに支援し、その程度に達した人には、本人の希望に応じ、社会へ復帰させるかあるいは、コロニー内に住居を与え、一戸を営ませるなどの運びにしている。

救世軍病院初年度事業報告より

山室 機恵子


明治7年(1874年)12月5日 誕生

大正5年(1916年)7月12日 召天 享年41歳

・病院建築のため、募金活動に力を尽くした。

・七人目の男の子を出産してすぐに亡くなる。

・その4ヶ月後に療養所の働きが始まった。

・彼女を記念して記念会堂(チャペル)が建てられた。

杉並療養所の支援者たち

「救世軍療養所設立の賛助を仰ぐ状」
1913年(大正2年)澁澤栄一(第一銀行)、大隈重信、森村市左衛門(日本陶器、ノリタケ、大倉陶器)、江原素六(白十字会長)、島田三郎(ジャーナリスト、衆議院議長)らが連名にて募金。


「救世軍療養所婦人後援会」
1914年(大正3年)が組織。趣意書に徳富静子(徳富蘇峰の妻)、野口幽香(二葉保育園創始者)、津田梅子、鳩山春子(共立女子学園設立。鳩山一郎の母)ら27名が賛同・署名。山室機恵子らと活動。

救世軍療養所開院式順序書
大正五年十一月二十三日挙行

一. 軍歌(第一)
会衆一同

一. 祈祷
慈善救済部 矢吹少佐

一. 軍歌(第二)
会衆一同

一. 聖書朗読
救世軍病院長 松田医学士

一. 開院の辞
日本司令官 デ・グルート大佐

一. 創立の始末
書記長官 山室大佐補

一. 演説
貴族院議員 石黒男爵

一. 祝辞
東京府知事法学博士 井上友一氏

一. 演説
衆議院議長 島田三郎氏

一. 記念会堂設立の趣意
山室大佐補

一. 唱歌合唱
参謀唱歌隊

一. 祝辞(代読)
内務大臣 後藤男爵

一. 祝辞(代読)
内閣総理大臣 寺内伯爵

一. 演説
澁澤男爵

一. 演説
大隈侯爵

一. 演説

一. 謝辞

一. 祈祷
デ・グルート大佐

一. 閉会

1917年9月
津田梅子の発議による山室機恵子記念会堂設立

生家の家庭環境

明治七年(1874年)十二月五日、岩手県花巻川口の佐藤家の長女。


父 : 佐藤 庄五郎南部藩に仕えた武士、明治維新後は村長。後に北海道に渡り、開墾に従事。先駆的精神に富み、開拓精神にあふれた人物。


祖父東北地方の飢饉に際しては二度までも窮民のために全財産を投げ出した慈善家。その家庭環境から、機恵子は「自分も将来何者かになり、何事かを為す人にならなければ」と思った。

明治女学校に入学した。勉強の傍ら、植村正久の牧する一番町教会に通って聖書の講義を聞き、やがて受洗。後にこう述懐している。


「慈善を励む父母に育てられ、幼い日より、いつも善い事を行うよう努めていた。しかし神に出会って、自分は神と人とを愛するために生きるという動機に大変化を見出した。自己中心から愛の生活に変わり、わたしは神によって心が変化され、キリストに救われました。」

1895(明治28年)年

英国よりエドワード・ライト大佐率いる十二人の伝道者が横浜港に上陸。
日本における救世軍の働きが始まった。



1899(明治32)年

山室軍平26歳、機恵子24歳で、日本の救世軍最初の結婚式を挙げた。
機恵子は、結婚にあたり両親に「どうか、できるだけ地味な品で、50歳まで着られるような着物を作ってください」と頼んだという。実際、機恵子の生涯は、貧しさの中で夫軍平を支え、奉仕に明け暮れる毎日だった。

1900(明治33)年
廃娼運動の開始

さて開戦直後から、世の必要に応えて、職業紹介所、免囚保護など様々な社会福祉の働きを起こしてきた救世軍だが、1900年から取り組んだのが廃娼運動である。


そして「婦人救済所」を創設し、廃業したり、助けを求めて駆け込んできた女性たちを指導し、自立させる働きをおこなった。その初代主任に任命されたのが機恵子である。


1905(明治38)年
東北凶作地子女救護運動

また、1905(明治38)年に始まった「東北凶作地子女救護運動」では、人買いの手に落ちる前に女性たちを救い出して教育・訓練し、心ある家の女中として紹介する働きをする「女中寄宿舎」の初代主任に任命され、続いて、「女学生寄宿舎」が新設されると、その初代主任にも任命された。

いずれも創設時の苦労と困難の連続で、激務が続いた。この間、機恵子は次男を肺炎のため生後七カ月で亡くしている。

最後の大事業

当時、結核は治癒困難な病気で、貧しい人々の間では死病と恐れられていた。1914(大正3)年、救世軍は我が国初の結核療養所の建設を計画し、募金活動を始めた。募金の推薦状には大隈重信、渋澤栄一、島田三郎らが名を連ねていたが、寄付金は思うように集まらなかった。

見かねた機恵子は、療養所設立は自分の責務と感じ、募金活動に立ち上がった。五月、六月、七月の三ヶ月に五万円の病院建設費を得んがために奔走せんと決心した。

まず、千人の紳士名簿を作成し、一人十円の寄付を求めた。機恵子自らが出向くと、千円、五百円などの大口寄付や予約申込者も現れた。


さらに彼女は「救世軍療養所婦人後援会」というのを組織した。その理由は結核は国民的な問題であるが特に日本では結核患者の内訳を見ると婦人の数が男子の数を凌駕しており、これは婦人の問題である。
機恵子は津田梅子、尾崎行雄夫人、徳富猪一郎夫人、三輪田真佐子、海老名弾正夫人ら三十人近くの知名の婦人の了解を得て彼らを発起人としてこの後援会を組織し、婦人層に後援を求めた。

1916(大正5)年11月
「救世軍療養所」開設

1916(大正5)年11月、結核患者のための「救世軍療養所」が開設した。結核予防法が制定される実に三年前のことである。


しかしこの喜びの開所式に、機恵子の姿はなかった。
その四カ月前の7月12日、生まれたばかりの男の子を含む七人の子どもを残し、41歳7カ月で天に召されたのである。

機恵子は死の床で、軍平に「私は幸福でした」と語り、子どもたちには「神第一」、救世軍の信徒、親戚、協力者には「幸福はただ十字架の傍らにあります」との言葉を遺した。


また、死の前日、軍平に、不治の病にかかり、足腰の立たない貧しい人を乗せる「いざり車」(現在の車椅子)を作ってくれるよう頼み、最後まで弱者への思いやりを示し続けた。


幸福は十字架の側に在り
山室機恵子の言葉   久布白落実 書

賢治の実弟、宮沢清六は著書『兄のトランク』の中で「若い頃の賢治の思想に強い影響を与えたものに基督教の精神があった。
私共のすぐ後には・・・山室軍平夫人、機恵子が居られた。私の祖父と父が『佐藤庄五郎さんと長女のおきえさんの精神は実に見上げたものだ』と口癖のように言っていたから、若い賢治がこの立派な基督教の実践者たちの思想と行動に影響されない筈はなかったと思われる。・」と書いている。


機恵子没後百年になる現代では、機恵子を知る人はほとんどおらず、故郷岩手ですら知られていない。
機恵子は「よいことをする時は、なるべく目立たないようにするのですよ」とこどもに教え、右手の善行を左手にも知らせず天に財を積んだ。・・・家庭を持ち働く女性の元祖でもあった機恵子の生涯を顕彰してみたいと思う。

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